(6)藤沢 ⇔ (0)日本橋
衛星写真 (41)宮、鳴海、池鯉鮒、(38)岡崎
航空写真 宮(熱田)
旧国名を表示する

米の単位

米の単位を開く

江戸時代の時間

江戸時代の時間

江戸の物価

江戸の物価を開く

江戸時代の貨幣

江戸時代の貨幣のサイトを開く

宮宿(みやじゅく、宮の宿、熱田宿)は、東海道五十三次の41番目の宿場で、現在の愛知県名古屋市熱田区にある。七里の渡し桑名宿と対をなす。

中山道垂井宿にいたる脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもあり、旅籠屋の数は東海道で最大で、本陣も2軒あった。熱田神宮の門前町でもあり、尾張藩により名古屋城下、岐阜と並び町奉行の管轄地とされた。

内田橋北に「宮の渡し公園」があり、七里の渡し跡もある。今も、折りにふれて桑名〜宮間を遊覧船で渡る「現代の七里の渡し」が行われる。

鳴海宿を後にした東海道は、天白川を渡り、道の片側だけ残る笠寺の一里塚を過ぎ、天林山笠覆寺、通称笠寺観音をのぞみながら尾張最後の宿、宮宿(名古屋市)に到着します。
 三種の神器の一つ草薙剣を祀り、日本武尊の伝説が伝わる熱田神宮の門前町でもあった宮宿は、別名熱田宿。白本陣、赤本陣と呼ばれた二軒の本陣をはじめ、脇本陣のほか舟番所も置かれていました。また、宮宿は東海道の脇街道であった佐屋街道、大垣を経由して中山道垂井宿に向かう美濃路が分岐し、しかも七里の渡しもあったことから大いににぎわった宿場でした。
 犬山城主で尾張藩家老だった成瀬氏が寄進した常夜灯がかつての渡し場付近に残っており、当時の宮宿の繁栄ぶりを今にとどめています。
 宮宿から先の東海道は、海の道。伊勢湾を約四時間、七里の渡しの舟で揺られて桑名宿(三重県桑名市)に着き、そこから再び陸路となります。その後、草津宿(滋賀県草津市)で中山道と合流した東海道は、いよいよ終点、京都三条大橋へと向かいます。

左の写真は宮の渡し場の鐘楼、正確な時を知らせる
この鐘は旅をする人や熱田に住む人々にとり重要な役割を果たしていた。
20年の戦災で鐘楼は焼失したが鐘は今も近くのお寺に当時のまま
残っている。熱田まつりの前の毎年6月の第一土曜日には「堀川まつり
がこの渡しを中心に行われます。

写真右は熱田神宮南門、左は隣接する知恵の神様といわれる上知我麻神社

左図 歌川広重 竪絵東海道より「宮」  右 明治6年 織田杏斎撮影「承応3年(1654)以来の常夜燈」

明治6年、織田杏斎撮影「熱田神戸海岸、人力車の群れ」 上の七里の渡のすぐ手前
宮の宿 はずれの裁断橋 明治終わり頃の撮影
明治の東海道
「街道を歩く 愛知とその周辺」 加藤淳子 中日出版社 定価880円 昭和62年11月発行

 「七里の渡し跡」から堀川沿いに歩くと「大瀬子浜公園」が左手にあり、この辺りが熱田魚市場跡となる。天正年間(1573〜)にはすでに魚市場があり、織田信長の居城清須に魚介類を運んでいたという。今でも道路を挟んだ向かい側には、魚市場の面影を残す家が残されている。

七里の渡し跡
熱田魚市場跡
魚市場の面影を残す家

大瀬子橋を渡ると左手の民家の壁際に南無地蔵菩薩がある。街道を歩くとちょくちょくお会いする子供の仏さまである。お地蔵さんを拝むときは「南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩」と三度唱えるといわれますが、何故でしょうか?

 昔、ちょっと縁のあった熱田高校を右手に見ながら歩き、新幹線のガード下をくぐると右手に別れる道がある。右手の道のほうが旧道のように思われるがここは直進である。明治24年の地図ではまだ右への道はない。昭和12年の地図では右への道はできているが、直進の旧街道は農道となっているようである。

 真っ直ぐに進むと右手に八幡神社がある。境内の「千年八幡神社由緒」碑によると御祭神は誉田別命(応神天皇)とある。もとは尾張徳川侯の下屋敷の南庭に鎮座されていたようで、天保8年11月に当地に社殿を建立したとある。

 徳川家ゆかりの神社で参拝を終えて街道を歩きはじめる。神社のところで右に折れて国道154号まで歩き左に折れる。千年(ちとせ)交差点で右に折れて、この先はしばらく東海通りを歩くことになる。

南無地蔵菩薩
直進(左)が旧道
八幡神社

東海通り千年交差点からは約6kmの一本道となる。一本道は退屈なところが多いが、やはりこの通りも退屈であった。片側2車線の道路で、車の交通量も多い。だが、街道を愛する旅人は退屈な道でも歩きます。

 千年交差点から1kmほどで名古屋港線(東臨港線)の踏切を越え、まもなくして中川運河に架かっている東海橋を渡る。東海橋から南の方向を眺めると、シートレインランドの大観覧車が見られる。85mほどの高さからは伊勢湾を一望できるようである。ぜひ一度は乗りたいと思うが一人ではねぇー。

 東海橋を渡ると左手に名古屋競馬場がある。明日29日から1月4日まで正月競馬の開催のようである。1970年代には700億円以上の売り上げがあったが、最近では不況の影響で300億円を下まわっている。日本ダービーの売り上げが300億円以上であるから、年間の売り上げがダービー1レースにも及ばない。地方競馬の経営はどこも厳しいようで、大分の中津競馬場や島根の益田競馬場などは廃止されている。ファンあっての競馬である。名古屋競馬も廃止されないようぜひ頑張っていただきたいと思う。

 西名古屋港線(西臨港線)を越えて入場神社、当知郵便局を過ぎると当知3丁目の交差点となる。交差点角には「港区史跡散策路(百曲街道と観音道めぐり)」の案内板が立てられている。この案内板は、ここにある大音寺から出発し当知神明社、明正一丁目の神明社、百曲街道を歩いて番割観音堂を廻る散策路の案内である。
 ちょっとこの散策路を歩きたくなったが、時間の都合上我慢して弥富へ歩くことにする。まあ、せっかっく立ち止まったので大音寺だけは立寄ることにした。

東海通
中川運河
大音寺

大音寺から500mほどで庄内川に架かる明徳橋となる。明徳橋を渡ると今度は新川の日の出橋となる。両河川共に川幅があり、渡り終えるまでの数分間は川の上となる。
 新川を渡りおえると左に折れて、川沿いに南に歩く。300mほどで右に折れると、やっと旧道らしい雰囲気となってきた。住所を確認すると東茶屋一丁目、住所も旧道らしくなってきた。東海通りに入ってからの一本道はつまらなかったが、今後はなにか期待できそうな道程となってきた。

日の出橋
新川沿いの旧道
東茶屋

右に折れると左手に南陽町郵便局があるが、近くに大きな碑が建てられている。なんの碑かなと思い確認するが分からず・・・。諦めて先を歩くと左手に正福寺、右手に徳照寺と寺が続く。見所は多くなってきたが寺、地蔵堂が多い。明治の東海道で松並木、一里塚を望むのはやっぱり間違っているか。

 右手に地蔵堂が建てられている。七反野の地蔵堂であるが、近くに「福田新田締切の地」と刻まれている碑がある。碑には「此の新田は寛永17年鬼頭景義公により造成され其の広さは約175丁歩である。すなわち東は庄内川右岸より西は戸田川左岸よりそれぞれ工を起こし堤防を築き最後の締切りが行われたのが此の地である。」と書かれている。その工事により死亡した人の霊を弔うため、福田新田締切の地に地蔵堂が祀られたという。
 地蔵堂から少し奥に入ったところには七反野神明社がある。この神社も福田新田の総鎮守として国常立大神が祀られ、新田が後世まで栄えるよう鬼頭景義自ら指図し、造営されたと伝えられている。

この先旧道は国道を横切り、南陽神社にたどり着く。七里の渡し跡から歩いてここまで約3時間、まだまだ弥富までは遠い。弥富までの作戦を練るため、ここ南陽神社で休憩とする。
 あと残りは12〜3kmほどであろうか。時速4kmであと3時間、今の時間は13時だから弥富には16時の予定となる。日没前には着けるであろう。

 ここの南陽神社であるが、祭神は日清戦争以後の戦死・戦病死者である。大正12年に靖国神社より分霊を拝受し昭和30年までは南陽忠魂社と称していた。また、新田開発を行った鬼頭景義の宅跡もこの付近にあるようである。現在でも長屋門が残されていて、明治天皇が京都巡幸(明治13年)のおり鬼頭家で昼食をとったという。明治天皇もこの街道を通ったのであろうか。

徳照寺

七反野神明社

南陽神社