(6)藤沢 ⇔ (0)日本橋
衛星写真 (42)桑名、四日市、石薬師、庄野、(46)亀山
旧国名を表示する

米の単位

米の単位を開く

江戸時代の時間

江戸時代の時間

江戸の物価

江戸の物価を開く

江戸時代の貨幣

江戸時代の貨幣のサイトを開く
弥次喜多 四日市宿
弥次喜多 四日市宿

四日市宿(よっかいちじゅく)は東海道43番目(→東海道五十三次)の宿場で、現在は三重県四日市市

四日市は、市場と湊から発達した。市場は浜田城築城のおり整備され文明年間(1469〜1487)には5箇所で定期市が開かれていた。その後永徳年間(1558〜1570)に毎月四の日に市が開かれるようになり、それが地名となったという。また伊勢参詣の分岐点としても賑わった。
東海道43番目の宿として賑わっていた江戸j時代には、海上10里の渡しで尾張国宮の宿まで舟の便があった。
 本陣:2、脇本陣:1、旅籠:98、人口:7,114人

四日市宿

強い風が吹きつける。

ここから東海道は南の
伊勢街道と分かれる。


ヒャーすごい風だ。

弥次さんや
日傘を飛ばされるなよ。

喜多さんや。
荷物を飛ばされないように

見ろ、向こうの人は
傘を飛ばされたぞ。

四日市市に入り、朝明川にかかる朝明橋(写真)を渡ると道は下り坂となる。

下りながら700mほど行くと右に長命寺(写真右)がある。明応年間(1492〜1501)に浄空により開基された寺院で、文治年間(1185〜1190)蒔田氏の居城した城址とされている。参道正面入口には1806(文化3)年に築造された参詣橋がかかり、山門左にある鐘楼は延宝年間(1673〜1680)に建立したと言われている。境内は素堀と築塀(写真左)がめぐらされていてとても美しいが、側面の堀は既に埋め立てられていて、ここにも土木公共事業の波が押し寄せているのだろうか。

道なりに行って三岐鉄道のガード下をくぐり長明寺から500mほどのところで、十字路になるので左折する。そこから約400m進み名鉄名古屋線のガードを過ぎたすぐ右に、江戸から数えて98番目の富田一里塚跡碑(写真)がある。

右に近鉄名古屋線、左にJR関西本線に挟まれた富田の町並みを600mほど歩き、クリーニング店の丁字路から右折して300m行くと十四橋に出る。橋の手前の堤防を左折すると国指定重要文化財で鎌倉中期の作「阿弥陀如来立像」が安置されている善教寺(写真左)がある。なお十四川堤の桜並木(写真右)はシーズンにはとてもきれいだという。

十四橋(写真)を渡り南富田町に入る。

橋から20mほどの十字路の角に常夜燈(写真)がある。このように町の中や街道にある常夜燈はそれぞれ意味をもって設置されていて、桑名川口より伊勢までは神宮への道先案内の役目を果たし、小さな明かりが淋しい夜の街道を行く旅人を如何に勇気つけてくれたことであろうか。表には常夜燈と刻まれ、その下に氏子中とある。裏には天保十已亥年(1839)刻まれている。

その先の左に薬師寺(写真)がある。51代平城天皇の大同年間(806〜910)年の頃、このあたりで疫病が流行して人々は大変苦しんでいた。そのことを旅の途中で知った弘法大師は、ここで足をとめて薬師如来像を彫り開眼した。するとたちまち人々の難病は平癒していった。人々は弘法大師に感謝しお堂を建てて薬師如来像を祀った。その如来像は現存し秘仏として扉をあけることはないという。なお当寺は当地唯一の尼寺である。

その先に行くと道は丁字路になり、正面に力石(写真)がある。明治の中頃この村の二カ寺のお堂を再建するにあたり、各所から土台石の奉納があった。その折土台石の中からからこの石を選び、休憩時に体力を試すため持ち上げを競いあったという。大きい石は120kg、小さい石は7kgある。

丁字路を左折し、また右折して400mほど行くと富田山城有料道路(写真)に出る。現在工事中で橋脚だけが目立つ状態であった。

有料道路を横断し南西へ道なりに約1.5km行くと丁字路になり、左折すると金場町で国道1号線と合流する。1号線を700mほど進み多度神社を過ぎてから1号線と別れて左の道に入り海蔵川に出るが、現在橋がないため、上流側に迂回して1号線の海蔵橋(写真)を渡る。

橋を渡るとすぐ左折して再度旧東海道に戻り、浜一色町、京町、川原町の町並を通って南へ向い、海蔵橋から約700mのところで三滝川にかかる三滝橋(写真右)にたどりつく。橋の上から眺めた三滝川(写真左)

三滝橋を渡るとこの辺が四日市宿の入口となり、現在の北町の町並(写真)み。

橋を渡るとすぐ左側に元祖なが餅で有名な笹井屋(写真)がある。創業は1550(天文19)年の戦国時代とのこと。

三滝橋から約500m行った仏具店のところで十字路になり、その右角に「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」「文化七庚午冬 十二月建」と刻まれ、また文字だけなく手の絵も添えてある手差道標(写真)が立っている。この辺りが宿場の盛り場であったという。

道標から右折すると1号線で遮断されていて、旧東海道は反対側の赤い建物の右側の道(写真)を入る。

1号線を横断して旧東海道に戻ると、そこはアーケードの諏訪栄商店街でその入口の右に諏訪神社(写真)がある。「おすわさん」は商業・漁業の神として古くから崇拝されていて、ここの諏訪神社は1202(建仁2)年信州諏訪上下両社を勧請したと伝えられ、訪ねた時は鎮座800年祭の記念事業の看板があった。

アーケード下を通る旧東海道(写真)

アーケードを抜けるとすぐ中央分離帯のある大通りを横断して浜田町へ入り、約500m行った左の浜田郵便局の手前に丹羽文雄生誕之地碑がある。丹羽はここの崇顕寺で生まれ少年期を過ごした。

道はゆるく右へカーブし近鉄名古屋線の踏切を横断して500mほど行くと、近鉄内部線がありその線沿いに旧東海道は南に続く。赤堀の町並み(写真左)を通り、内部線あかぼり駅を過ぎたころに右に鈴木薬局(製薬所)(写真右)の立札のある古い建物がある。膏薬の製薬を200年以上も営む旧家で、代々勘三郎の名を受け継いでいて現在の当主鈴木と友造勘三郎さんは、11代目となる。当建物は東海道沿いの古い建物の中でも一際目立ってがっちりつくられていて、1852(嘉永5)年に建てたもの。膏薬を作った作業場や薬研など貴重な道具が保存されている。

その先の鹿化(かばけ)川にかかる鹿化橋を渡り、日永1丁目、2丁目を通り約800mほど歩くと天白川にかかる天白橋に来る。このころから雨が降り始め急遽雨合羽を取り出して身支度をしたが、以降デジカメ操作がとてもやりにくくなり、歩く方もスピードが落ちてしまった。天白橋から南に日永3丁目、4丁目と歩き天白橋から約1.5kmの日永5丁目に来ると、左側に高い松の木が1本(写真)だけ見える。昔はこの辺は道の両側に立派な松並木続いていたが、現在はこの松が唯一昔の面影を残すだけになったという。

その先の十字路を横断して泊町に入ると、右に紀之国屋本家醸造株式会社(写真)と書かれた看板の工場と建物があった。あの豪商紀伊国屋文左衛門とどういう関係にあるか不明であるが、とりあえずカメラに撮ったがどうも無関係のような気がしている。

日永の1本松から南下して約1kmのところの東海道と伊勢街道の分岐点は日永の追分(写真)で、その三角地帯には高さ7mもの鳥居道標の石碑がある。鳥居は道が拡幅される前は伊勢街道を跨いで立っていた。この鳥居は1774(安永3)年久居出身の渡辺六兵衛という者がここからら伊勢神宮を遥拝できるようにと、建てたものであり、鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせ20年ごとに建て替えられることになっていた。現在の鳥居は昭和50年に建替えられて最初から数えて第9次となっている。道標には「左いせ道、右京大阪道、すぐ江戸道、嘉永二年己酉春二月桑名魚町尾張屋文助建立」と刻まれている。その他常夜燈が一対、現在も神水が湧き出ている水屋、それに多数の緑樹がある。
日永追分は四日市宿と石薬師宿の間にあり「間の宿」と言われ、本宿より安く宿泊できることもあり旅籠は茶店も多く賑わっていた。

追分から旧東海道は1号線と合流し300mほど南西に進み、近鉄内部線追分駅の踏切を渡るとすぐ道は分岐する。ここで1号線と別れて左手の道に入り小古曽の町並みを進んで行くが、時計も16時半を過ぎていて小雨も止まず、このまま先に進んでも宿泊できるようなところがありそうもない予感がしたので、内部線の終点の内部(うつべ)でこの日は終わり、宿泊できる四日市駅まで引き返した。

歩き始めるとすぐ国道1号線を横切り、西南へ500mほど行くと内部川堤防となるるが現在は橋がないので、下流に迂回して1号線の内部橋(写真右)内部川(写真左)を見ながら渡った。

渡り終えたその先から1号線と別れ斜め左の道を1号線と平行して進む。道なりに行くと成満寺のところで丁字路になり左折して酒屋の前を進むと坂道の正面に小さな金毘羅堂(写真左)が見え、そこからまた左折して進むと道はさらに急坂となり続いていく。この坂は東海道でも急坂で知られ、息吹山の賊を討ち傷ついた日本武尊敬が杖をつきながら歩いたというところから、杖衝坂(つえつきさか)(写真右)と称せられている。