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衛星写真 (42)桑名、四日市、石薬師、庄野、(46)亀山
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石薬師宿(いしやくしじゅく)は東海道44番目(→東海道五十三次)の宿場で、現在は三重県鈴鹿市

歌川広重 保永堂版より「石薬師・石薬師寺」
石薬師 1910年代 撮影
石薬師 大正末頃 撮影
佐々木信綱の生家(地図中−@)

明治、大正、昭和にわたり、歌人で国学者であった信綱の生家が江戸期そのままの姿で残されている。隣接して資料館が設けられ多数の研究資料等を展示している。

石薬師寺(地図中−A)

本尊は薬師如来。地面から生えていた菊面石に弘法大師が爪で刻んだと伝えられる。旅人はもちろん、参勤交代の大名もここに参詣して道中の安全を祈願したという。
石薬師宿はこの寺の名前からつけられた。

庄野宿資料館(地図中−B)

庄野宿は、安藤広重の浮世絵「東海道五十三次・庄野」に描かれているが、旧小林家住宅が鈴鹿市指定建造物として残され、庄野宿に関する資料館となっている。

鈴鹿市石薬師町の町並み

慶長6年(1601)に東海道に伝馬制度が設定されたが、四日市から亀山までの21.5kmには宿場がなかった。交通量の増加につれて宿場の必要性が生まれ、元和2年(1616)に付近の人を集めて石薬師宿をつくり、さらに数年遅れて庄野宿が開かれた。
元和2年(1616)の石薬師宿の成立は、この宿の元本陣小沢家に残る延享4年(1747)の宿役軽減嘆願書によると、この地には家数32軒しかなく、隣の上野村との合宿を命じられたが、この村も12軒しかないので、付近より人家を集めて、180軒で宿立てしたとある。

天保9年(1838)の村差出明細帳によると、宿の構成は南北8丁あまり、本陣小沢家・岡田家・蘭田家は西側のほぼ中央に、問屋場はその東側にある。このときの家数193、うち旅籠屋15、人数803。弘化2年(1845)の宿絵図によると家数181のうち旅籠19、茶店と兼業を合わせると32、茶店2で兼業をいれると12、その他の商店7などで、農業133と隣の庄野宿同様農家の割合がおおく70パーセント以上を占めている農村的色彩の濃い宿場であった。
前述の宿役軽減嘆願書には宿困窮の理由として、参宮客は上方は関宿より、関東方面は四日市から伊勢参宮道を行くし、荷物は白子浦・若松浦から亀山のルートを通りこの地を通らないことを揚げている。
明治23年関西鉄道が開通し、現加佐登駅が開設されると、石薬師宿は急速に衰えていった。
国道1号線が旧東海道筋の東側にバイパスとして付け替えられたので、宿場当時の町並は残っていると思い訪ねたのだが、宿場の名残は旧小沢本陣と佐佐木信綱の生家位で、あまり残っていなかった。でも格子戸を備えた町家が点在する明るい開けた感じの町並だった。

石薬師町の町並
石薬師町の町並
石薬師町の町並
石薬師町の町並
石薬師町の旧小沢本陣

国分町信号から国道1号線と別れて、左の道を南西に歩くとそこは小谷の町並(写真)みとなる。

約1km歩くと1号線に出るので、地下道を潜って反対側に渡りさらに1号線沿いに200mほど行ってから、1号線と別れて右手の細い道に入る。その入口の左手に延命地蔵の北町地蔵堂(写真)がある。江戸時代賑わった石薬師宿の入口に旅の安全を祈って建てられたという。

坂道を登って行くと、石薬師の町並み(写真)が見えるが、こおからは昔日の面影を感じられない。

少し先の右に大木神社の鳥居(写真左)があり、この奥深いところに神社がある。鳥居から延々と歩いて行くと、なんとまた鳥居があり、その奥に今度は大木神社(写真右)があった。ここは1ヘクタールにもおよぶ石薬師の鎮守の森で、サカキ、モチノキ、ヤブニッケイ、スギ、ヒノキなど100種もの樹木や草木が混在している。その主体をなすのがブナ科スダジイのシイの木で、巨木をなしている。

旧東海道に戻り歩くと、すぐ先の右側には小沢本陣跡碑(写真)があり建物も残っている。建物は明治初期に建替えられているが、西国大名や当時の人々の宿帳等が残っていて、赤穂の城主浅野内匠頭の名前も記されている。国学者 萱生由章(1717〜1775)はこの家の出身。

道の反対側の民家の塀(写真)には、「東海道」「石薬師宿」の標示と、奥の方には「広重の絵画」が飾られていて、町の人々が石薬師宿をいかに一生懸命PRしているか心くばりが察しられるような気がした。

さらに進み石薬師小学校を過ぎると石薬師文庫敷地の電柱の脇に「距津市元標へ九百四町十七間」と刻まれた石柱の道標(写真)がある。この道標は津市元標までの距離を表し、大正時代に道路元標が各市町村に設置された時のものである。

その先には佐々木信綱資料館(写真左)と、その正面右に隣接して木造建物の信綱の生家(写真右)がある。歌人で国文学者で第一回文化勲章受章者の信綱(1872〜1963)は弘綱(江戸末期の国学者)を父としてこの地で生まれた。記念館には文化勲章をはじめ多くの遺品、著書、原稿など2000点が収蔵されている。生家は信綱が明治10年に一家が松坂に移住するまでの幼年期を過ごしたところで、庭には信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に詠われた卯の花(ウツギの木)が植えられている。

記念館を過ぎると道は下り坂となり400mほど行くと1号線を跨ぐ瑠璃光橋(写真左)があり、渡るとすぐ右に石薬師寺の看板(写真中)が立っている。そこから奥に行くと「西国薬師第三十三番霊場」「石薬師寺」の表札がかかった山門(写真右)があり、門からは階段を下り寺院に行けるようになったいる。石薬師寺は、聖武天皇時代に泰澄によって開かれた寺で東海道の名刹として知られ、参勤交代の大名が必ず参詣したという。

戻って旧東海道の道をさらに下ると石薬師寺の正門(写真左)に来る。中に入ると木立に囲まれた総檜造りの本堂(写真右)があり、江戸時代初期の桃山様式で、1629(寛永6)年神戸城主 一柳監物直盛により再建された。石薬師町の地名にもなった石薬師寺は真言宗の寺院で、ご本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと言われている高さ190cmの薬師如来で、花崗岩の自然石に浅く線彫りされている。道は下り坂で南に進み、約300m行くと右に曲がり鈴鹿川支流にかかる浦川橋(写真)を渡る。

橋を渡ると左折し、そのすぐ先にある石薬師一里塚跡碑(写真)を見ながら進みJR関西本線のガード下を潜って右折する。田畑の道を関西本線の沿って歩き、1号線のガード下を潜って左折して1号線と合流して進む。石薬師一里塚から約1.5km歩くと鈴鹿川支流にかかる宮戸橋に来る。
 ここからは庄野宿は近い。