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衛星写真 (42)桑名、四日市、石薬師、庄野、(46)亀山
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江戸時代の時間

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江戸時代の貨幣

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庄野宿(しょうのじゅく)は東海道45番目の宿場(→東海道五十三次)で、現在は三重県鈴鹿市

問屋場(といやば)は、江戸時代街道宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった(本項の語意に於ける「問屋」とは、運送業を意味する。問丸を参照せよ)。

業務の主宰者は問屋と称され、その助役の年寄、さらに人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などの者がいた。通常の時は交代で出勤するが、大名行列などの大通行があるときは全員が詰めることになっていた。

1708(宝永5)年「相定之証文」

この「証文」を要約すると、「庄野町の御年貢と年中の諸入用は、役人・百姓代が立ち合って検討し、個々の割付帳面を作成した。すべての百姓にその帳面を読み聞かせ、役人・百姓とも納得した。このことについてはいささかの申し分もない。その上で、宝永4年以前の地下諸帳面を相談の上で焼き捨てた。このことも一切申し分はなく、仮にどんな文書が出てきても反故(ほご)にする。今後は、5年分の帳面を庄屋の手元に所持して、5年が過ぎたら焼き捨てるように取り決めてこの証文とした」とある。そして、庄屋・問屋・年寄のほか住民169名が署名、押印している。

 これは、年貢や町の諸入用、今日的に言えば町が負担する税金と町自治会費の取り決めであるが、諸帳面の廃棄にも触れている。江戸時代の文書では「後世のためにこの文書を保存する」というような記述は多く目にするが、文書廃棄について記された文書は珍しい。
 実際、現在保存されている庄野宿文書全般を見てみると、1707(宝永4)年以前の文書は検地帳をはじめ土地関係史料など数点があるだけで、諸帳面類はなく、文書廃棄が実施された可能性は高い。また、「今後は5年分の帳面を庄屋の手元に所持して、5年が過ぎたならば焼き捨てる」というシステムは、現在の行政文書の保存規定とよく似ている。
 近年、江戸時代の文書整理・保存に関する研究が種々なされているが、江戸時代は先例に縛られ、そのために必要な文書を徹底して保存・管理したという見方が強い。この庄野宿文書の文書保存システムは、そうした一面とは別に、構成員で文書の保存年限を協議し定めており、当時としては斬新なものでなかったかと思う。
 ただ、そのときは文書のもつ将来の歴史的・文化的な価値という判断はなかった。それもそのはず、公文書の歴史的意義を重要視し、保存を訴える声が高まってきたのは、第2次大戦後の1950年代からである。さらに、これら文書の歴史的価値判断は当事者ではなく、客観的な立場から行う必要があり、それが公文書館の役割でもある。県でも公文書館設置に備えて県庁公文書の選別作業を進めている。江戸時代の文書は、既にいくつかの選別の経緯があって長い年月保存されてきているわけで、今後も後世にそれを継承していかねばならないと痛感している。

鈴鹿市庄野町の町並み

慶長6年(1601)に東海道に伝馬制度が設定されたが、四日市から亀山までの21.5kmには宿場がなかった。交通量の増加につれて宿場の必要性が生まれ、元和2年(1616)に付近の人を集めて石薬師宿をつくり、さらに数年遅れて庄野宿を開いた。
庄野宿の成立は寛永元年(1624)で、早くからこの地に居た36戸の他に鈴鹿川東岸の古庄野から34戸が移住して宿場が形成された。延享3年(1746)の庄野宿明細帳では、家数179・人数730。文政3年(1820)の家数171・人数850。本陣・脇本陣のほか旅籠屋24軒があった。天保9年(1838)には家数210・人数843、旅籠16。明治3年の戸籍帳には家数202のうち農業111・煮売り茶屋10・旅籠10とあり、

農家が多く宿関係の旅籠が少なかった。石薬師宿も同様で、参宮客は上方からは関宿より、関東からは四日市から伊勢参宮道を行き、荷物も少なく、宿場・伝馬機能の維持が困難な宿場であった。
明治以降宿場としては寂れたが、昭和24年に国道1号線が改修され町並の東側を通ったため、細長い町並はそのまま残り、当時の宿場町の姿をよく残している。出桁造りの町家もかなり残り、古い町並としては見ごたえのある宿場町であった。澤田本陣跡は庄野集会所となっていたが、各種の宿場文書が保管されている。また旧小林家住宅を庄野宿資料館として公開されていた。

和田光平さん
荒神山

【荒神山の血煙り】

講談が伝える荒神山の喧嘩は,慶応2年(1866)4月8日に起きている.
 神戸の長吉(かんべのながきち)が仕切っていた博打場の権利を,桑名の安濃徳 (あのとく)こと安濃屋徳次郎というヤクザが,一方的に取り上げようとした事 が発端で,吉良の仁吉や,清水次郎長一家の面々が神戸の長吉に助太刀した大喧嘩 だった.
昭和41年が事件100 年目になるが, その頃ヤクザ映画が流行しだした.
新しいヒーローは昭和残侠伝の花田秀次郎さんで, 高倉健が一躍トップスターに なった. 背中の唐獅子牡丹がパロディーになったりした.
「とめてくれるな, おっかさん. せなかのいちょうが泣いている」
東大落城前年の昭和43年5 月祭では, こんなポスターが作られていた.
ところで荒神山の血煙りの話だが, 昭和30年頃までは,映画や浪曲でお馴染みの 話だったと聞く.
私の世代ではもうすっかり風化してしまっていて, 全く返り見られない.
大体, 吉良仁吉がなにをした人かが分からなくなっている.

喧嘩の舞台となった,高神山観音寺は春日局の信仰があつく,その異母弟の順海上人 と共に奥の院に三宝荒神を祭ったので,荒神山と呼ばれるようになったそうだ.
江戸時代, 博打は禁制だった. だから博徒は裏街道を歩く渡世だった.
国定忠次は, 追い詰められて, 逃げる道すがら名セリフを吐く.
「赤城の山も今夜を限り, 生まれ故郷の国定村や, 縄張りをすて, 国をすて 可愛い子分の手前たちとも, 別れ別れになる門出だ」
このあと, 忠次は関所破りをして逮捕され磔になっているから, 結構危険な稼業で あったことが分かる.

荒神山は非合法の博打場として,立地条件にすぐれていた.
ここは神戸領,亀山領,幕府の天領が隣接する三領交差ポイントで,どの藩主も 自領の問題として,大きく取り上げにくい地形にあった.
万一踏み込まれても,それが亀山藩なら,神戸か天領へ逃げ込めば良いし,神戸藩 なら,亀山か天領へ逃げ込める.三藩が一致協力して取り締まりに当たることは, なかなか難しい.神戸長吉は, 立て割り行政の不備を突いた,実に巧妙な博打ポイント を発見して, 運営していた分けだ.

博打場の開帳は年に2日だけ4月7,8日と決まっていた.
 安全なことが全国に知れ渡っていたからだろうか,この2日間の博打収入(テラ銭) は,実に1,500 両もあったそうだ.
 運営母体である神戸の長吉は,子分50人の小さな一家の親分だったが,この2日の 収入だけで十分潤っていたようだ.
 一方,桑名で羽振りをきかせていた安濃徳一家は,千余名を擁する大所帯で,勢力は この一帯で一番だったが,長吉の素晴らしい博打場が欲しくてならなかった.
 桑名は宿場だが, 遊廓もあり, 江戸時代の一大歓楽街であったようだ.
そんな中で,慶応2年春,廓の女性を巡る子分同士の喧嘩が桑名で起きた.
 長吉の子分,加納屋利三郎と,安濃徳の用心棒で侍崩れの浪人熊五郎という男が 桑名の花町で,斬り合いに及んだのだ.
 安濃徳は,ここぞとばかり長吉に喧嘩をふっかけ,双方斬り合いの末,利三郎も 熊五郎も, 死んでしまった.

【吉良の仁吉】

事件はこれで終わったのではなく,ここから始まった.
 安濃徳は,神戸の長吉を潰すのは訳はないと見て,全国の親分衆に,今年の荒神山 の博打場は,安濃徳が仕切ると子分を走らせて,知らせて回った.
 その中には招待客として信州の沓掛時次郎もいた.
長吉は怒ったが,所詮ゴマメの歯ぎしりでしかない.なにしろ非合法の博打場開帳 だったから, その筋に訴えて出る訳にはいかない.
しかたなく一旦伊勢を引き,兄弟分であった吉良仁吉のもとに身を寄せ,反撃の 助っ人を願い出た.
 仁吉にとっては突然,降って涌いたような災難だっただろう.

彼には,まだ新婚半年だった女房の,お菊がいた.お菊は安濃徳の妹だったから, 神戸の長吉の喧嘩の相手は,吉良仁吉にとっては義兄になる.
 「義理が廃ればこの世は闇よ.なまじ止めるな夜の雨」と演歌に歌われているが, 可愛い女房よりも,盃を交わした兄弟分との義理を,彼は重んじた.
 神戸の長吉の依頼を受諾し,お菊に離縁状を持たせ子分一人を付けて,安濃徳に 送り返したのだ.
 丁度この頃,清水次郎長の怒りにふれて清水を離れていた17人の子分たちが仁吉の ところにやっかいになっていた.
 17人は,血気に燃え,仁吉に手を貸すと張り切った. 親分の次郎長の許可なしだ が, ここは仁吉に是が非でもついて行くと聞かない.
そこへ突然清水次郎長が現れる.突然現れるところが講談,浪曲の良いところだ.  先の安濃徳からの通知を知り, 荒神山の博打場の権利のことが気になって, 仁吉に 相談に来たのかもしれない.
清水次郎長は仁吉に一目も二目も置いていたと伝えられる.

仁義の道を選択した仁吉にいたく感動した次郎長は,17人の子分を連れて行くことを 承知したばかりか, さらに連れていた15人の子分も加えて,大政,小政ら5人を後見 にして荒神山へ行かせた.
 総勢400 名強で,荒神山に対峙する安濃徳に対して,仁吉と神戸の長吉側はたったの 34人だったが,精鋭揃いだった.大瀬の半五郎, 法印大五郎, 大野の鶴吉といった 名が見えるが, あくまで講談が創作した人物像だ.
その後の乱闘の描写は講談に任せるとして,この喧嘩の結末は仁吉側の優勢の内に 終わりかけた.だがその時,石段の途中にいた仁吉が鉄砲で太腿を撃ち抜かれた.
 倒れたところを,敵の用心棒角井門之進に斬り付けられ,重症をおってしまった.
 寺の境内の釣り鐘には,この時の戦闘で傷ついた鉄砲の跡があるそうだ.
 大政がこれを見て, すかさず駆けつけ, 角井門之進を長槍で討ち取り, 仁吉を救出 した. 仁吉は,子分たちが用意した戸板に乗せられて,その場を引くしかなかった.
 それを知って劣勢だった安濃徳が,これを追いかけようと動きだした.
 しかし,それまで中立の立場で様子を眺めていた信州の沓掛時次郎が,仁吉をかばう 行動に出たので,安濃徳側は敗走せざるを得なくなったという.
 仁吉は戸板で港へ運ばれる途中で,絶命した.
 遺体は白子港から知多半島を経て,吉良まで運ばれ埋葬された.
 沢山, 時代劇の顔役が登場する話だが,喧嘩があったのは事実だし,ここで吉良の 仁吉が絶命したことも史実だ.
 数に物を言わせてゴリ押しするやからに, 敢然と立ち向かう勇気ある男の話は, 洋 の東西を問わず, 大衆の人気を呼ぶ.
古い話のようだが,明治維新の2 年前に起きた任侠物語だった.

【女人堤防】

町はずれに川俣神社があって,そのすぐ近くに,山の神と書いた石碑と,女人堤防 の碑があった.神戸領との境界を示す石もある.
 この先に安楽川があって,そこの橋の手前にも川俣神社があった.何か由来のある 神社なのだろう.
 女人堤防とは, 女人だけの力でこの近くの安楽川の堤を補強する堤を作ろうとした ことに由来する.
最初, 神戸藩に堤防の構築を願い出たが, 南岸の城下に水害の恐れがあるとして, 許可が下りなかった. それでも水害は毎年, この地を襲う.
たまりかねた村の女性たちは, 女なら捕らえられても罪が軽いだろうと, 密かに堤防 工事を進めた.
女たちは, 結局捕らえられたそうだが, 神戸藩では, 罪をゆるしただけでなく, ご 褒美まであげたというから, ウーマンパワーの勝利だった.