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市の東部に位置する、東海道46番目の宿場町。
宿場町であると同時に、城下町としても栄え、県下で唯一現存する城郭建造物である亀山城の多聞櫓が残っています。また、城の一部が移築再建されたお寺・家老屋敷・直角に曲がった細い路地などがあり、現在も城下の名残を留めています。

亀山宿(かめやまじゅく)は東海道46番目の宿場(→東海道五十三次)で、現在は三重県亀山市

亀山城多聞櫓(地図中−@ )
亀山藩家老屋敷(地図中−A )
慈恩寺(地図中−B )
亀山市の町並み

亀山市街地は近世亀山城を中心とした城下町として、また、東海道の宿場町として発展した。
天正18年(1590)松阪城主蒲生氏郷が会津に移封されると、それに従って関一政は陸奥国白河城(現福島県)に移り、亀山城には岡本宗憲が入った。宗憲は若山にあった亀山旧城の東南に本格的な平山城を築き、ここに近世亀山城下の基礎が出来上がった。
しかし、宗憲は慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、西軍に属したために滅亡し、亀山城主は美濃国から再び関一政が移封された。その後目まぐるしく藩主の交代や幕府領になったりした変遷を経て、延享元年(1744)譜代の石川総慶が入封し、11代126年間石川氏の支配が続いて明治維新を迎えた。

亀山城は歴代の領主によって改修増築が加わり、石川総慶が入ったときには、城内には本丸・二の丸・三の丸、城主の居館である向屋敷などがあった。侍屋敷は西の丸・東の丸・江ヶ室・市ヶ坂・東台・渋倉前・南崎など、家格に応じて城郭を中心に同心円状に配置され、家老・年寄など重臣の屋敷は東三之丸・南三之丸に置かれていた。
城下の町人町は東町・西町で構成され、それぞれに亀山宿の問屋が置かれ、助人馬や伝馬などの継送り問屋業務を交代で行っていた。寛文頃(1661〜73)の亀山両町の長さは19町26間(東町12町46間・西町6町40間)、家数370軒であった。

「東海道関亀山問屋同心掟控」では、寛政7年(1795)改は家数、東町263軒・西町165軒の合計428軒。人数1,743人であった。
東町には樋口本陣、椿屋脇本陣があり、旅籠屋は両町合わせて21軒あったという。享和3年(1803)東海道亀山宿分間図には、街道筋に並んだ本陣(樋口太郎兵衛)・脇本陣(椿屋)をはじめ旅籠・遊女屋・米問屋・魚屋・酒屋・質屋などが見られる。
今、西町・東町等の旧東海道筋は商店街になってしまい、古い町並は殆ど残っておらないが、それに続く本町三丁目・本町四丁目には僅かだが古い町並や古い伝統様式の民家が点在する。切り妻造り平入り、中2階建てもしくは2階建ての建物が旧東海道に沿って建っている。
城下町時代の町人町の中心地の東町は旧東海道筋が拡張されて、県道になり古い町並は全く残っていなかった。

亀山市歴史博物館
亀山市歴史博物館

【写楽の大首絵】

石井兄弟の仇討ちを扱った歌舞伎の情景を, 写楽が大首絵に取り上げている.
 それは寛政6年(1794)5月に出された大首絵28 枚の内の三枚で, これぞ写楽と 言いたくなる名作だ. 写楽は,なぜかこの後次第に下手になって行き,第三期の 11月に出された作品には,目を被いたくなるような駄作も混じってくる.
そして翌寛政7年(1795)正月に第四期の作品を出版してから突如その姿を消して しまう.この間の作品およそ140余点が現存しているが,最初の28枚しか本物じゃない という説もあって,この逆転する完成度に付いての答えはまだない.
 亀山の敵討ちのお芝居の題名は「花菖蒲文禄曽我 」(はなあやめぶんろくそが) という. 寛政6 年(1794) 5月,都座で上演されたものだ.
お芝居だから実名と配役を少し変えてある.
写楽の画集に, その見方が解説されているが, 三枚を並べて順に配置して眺めると, 見事な仇討ちの光景のアップになる.
 右に, 三代目坂田半五郎の藤川水右衛門( 敵役)
 中に, 二代目板東三津五郎の石井源蔵( 仇討ち側)
 左に, 大谷徳次郎の奴袖助( 仇討ち側)
 この並びで, とにかくじっと眺めてみて欲しい.
 藤川水右衛門は, 着流しで腕捲くりをして目をギョロッと見開いている. いかにも 強そうに見える.
石井源蔵は, まさに刀を抜いて, 敵に斬りつけようとしている. 乱れた髪が風に なびき, 逆光の照明を受けている. 必死の形相なのだが, どことなく弱そうだ.
 後ろに控える奴袖助は, 主人を助太刀しようと, 刀の鞘に手をかけている.
その表情も, しぐさも, 頼り無げで, とても戦力になりそうに見えない.
 この場面の直後, お芝居では仇討ちの二人が藤川水右衛門に返り討ちにされて 死んでしまう. そんな結末を見る人に予感させる出来映えが, 素晴らしい.
 どこまでも不敵な表情の三代目坂田半五郎の藤川水右衛門は, 一度見たら忘れられ ない. 強烈な印象を残す名作だ.
写楽別人説が盛んだが, こんなものが素人や, 並の画家に書ける分けがない.
石井源蔵のそれは, 実物を見ないと, 精巧な髪の表現や立体になった部分が分から ないが, 美術展で初めて見た時, 私は感動にうち振るえる思いがした.
 逆光であることも, はっきり分かる. 昔のお芝居では舞台の後ろから蝋燭の光を 集光して照明をあてる装置があった. その場面を忠実に示したものなのだ.。

【和田光平さんの談】

石井兄弟は全部で4人いて,父の敵赤堀源五右衞門を追う内に,長男は返り討ち, 次男は船で遭難死し,残る3男源蔵と4男半蔵が24年目に仇討ちに成功した話だった。

【石井兄弟仇討ちの場】
石井兄弟敵討の碑

元禄14年(1701)5月9日、石井源蔵・半蔵兄弟は亀山城石坂門外で、父と兄の敵である赤堀源五右衛門を討ち果たしました。28年目にして仇討ちの本懐を遂げた石井兄弟敵討ちは、「元禄曾我」として歌舞伎や絵本などに取り上げられ広く世に喧伝されました。この碑は、石井兄弟の事績を顕彰して、兄弟が本懐を遂げた石坂門外に亀山保勝会によって建立されたものです。なお、討たれた赤堀源五右衛門の墓は野村の照光寺にあります。

亀山城は天正18年(1590)岡本宗憲によって築城されました。別名を「姫垣」を意味する「粉蝶城」といい、当初は天守もありましたが、堀尾忠晴が丹波亀山城の天守と間違えて取り壊したとの伝承があります。 多門櫓は、天守台と言われる本丸高石垣上にあり、寛永9年(1632)頃に築造されたとみられます。三重県で唯一現存する城郭建造物として三重県指定文化財に指定されています。

加藤家は江戸時代後期の亀山城主石川家の家老職を務めた家で、亀山城西之丸に屋敷地を賜りました。現在は屋敷の表門である長屋門とこれに連なる土蔵などが遺されています。長屋門及び土蔵は江戸時代後期の建築と考えられ、武家建築として県下でも希少な遺構として、亀山市文化財に指定されています。

浄土宗。本尊の薬師阿弥陀如来立像は、等身大の檜の一木造り、像高163cmで、平安時代初期彫刻の代表作として、重要文化財に指定されています。

和蝋燭
大きな蝋燭と油煙の関係

家庭用の蝋燭ではほとんど出ない油煙も、寺院用の大きな蝋燭になると目立つようになります。
これは、燃焼と煙はどうしても切れない関係にあると思います。
そこで、油煙を少なくする研究を進めてまいりましたが、未だ結論を出せずにいます。
なかなか人間が望む方向には行かず、化学変化を起こしかえって悪くなります。
これは、ベースとなる蝋に関わってくる問題だと思います。
また、燃焼は自然現象です。温度、湿度、換気、空気の流れ、全てが関わって来、人間がコントロールする事が出来る範囲を超えてしまいます。

和蝋燭の火はどうして揺れるのか?

和ろうそくの火は時には、静かに燃え、時には瞬きしているかの如く揺れる。
これは、どうしてだろう。あるところから質問を受け色々な観点から解明してみた。先ず、蝋燭の燃焼は芯が融解した蝋を吸い上げ、それが、燃える。融解したろうが吸い上がった、その時は蝋の供給が最大のため炎は大きくなり揺れる。
しばらくすると、その蝋は燃焼によって無くなる、芯は燃える物がないから、一段下がる。この蝋が燃えて燃える物がなくなったときこのときは炎は小さく一番安定する。これが繰り返されて蝋燭の燃焼は成立する。
それじゃ、炎が小さいほど良いのかになるが蝋燭の大きさと比例しない芯だと、溶けた蝋を吸い上げる力が少ない。
だから、蝋があまって蝋が流れる原因になる。
そのため、どの蝋燭を何処に使うかは、ほぼ決まっていると、言える。

櫨蝋和ろうそくの話

蝋燭は奈良朝時代に、中国大陸から伝来したと言われています。

普段のお勤めは白の和蝋燭を、おめでたいとき(出産、結婚、入学など)、
また30回忌以上の法要では朱蝋燭をお使いください。(浄土真宗の住職の話)

明治になって、パラフィンが発見され、櫨蝋は急速に生産量が低下した。
戦争があって、石油が入荷しなくなり、その時またまた、櫨が見直された。

そして、現在。
和ろうそくなら何でもいいなら何でもあるが、
いい物は何かになると、櫨以外にはないと思います。

仏壇屋さんがいわれるに、櫨の和蝋燭は仏壇および金箔に悪影響を与えない、
純正の櫨蝋は油煙がほとんど無く、また性質が悪性でない、金箔も傷めないし
仏壇の洗濯の時、汚れが取れやすいとのこと、とは京都の和蝋燭屋さんの話。
実験した事はないが、今までの経験からその様に思えます。

近江ローソク談

和ろうそくは本来、ハゼ蝋が一番いいと思いますが、現在は全てがハゼ蝋で作られているわけではありません。
ハゼは広く全国に分布していたが特に四国、九州、中国地方に多かったそうです。
明治時代に最高生産高を誇っていましたが、1993年の資料ではその1%ほどしか生産されていません。
純正の良い櫨蝋が極少なのに、良い蝋燭がそれほど多く作れるはずはない。
しかし、現在の所、櫨蝋でない商品も和蝋燭と言われています。
だからこの頃、成分表示が大事だと思います。

近江ローソク談