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衛星写真 (47)関、水口、土山、坂下、(51)石部
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関まちなみ館

関宿(せきじゅく)は東海道47番目の宿場(→東海道五十三次)で、現在は三重県亀山市(もとは関町であったが、2005年1月11日に亀山市と合併した)。

古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の1つ「伊勢鈴鹿の関」が置かれた。江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。古い町並みがよく保存されていて、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

関町の町並み

関町は鈴鹿山脈の東麓にあり、古今東西往還の分岐点として交通の要所であり、古代には不破の関(岐阜県関ケ原町)、愛発の関(福井県敦賀市の南)と共に三関といわれた鈴鹿の関が置かれていたところであり、町名もこの鈴鹿の関に由来する。
亀山城の城主は関ヶ原の戦い後、関氏の後、松平・三宅・本多……とめまぐるしく交替したが、備中松山から入部した石川氏が廃藩まで140年ほど支配し、関宿もその亀山藩の支配下にあった。

中世から関は伊勢平氏の流れを汲む関氏の支配下にあり、旅人や近在の人々の信仰を集めた地蔵院には門前町が形成され、その集落(木崎・中町・新所)そのものが「関地蔵」と呼ばれるようになった。この関の地蔵を中心に次第に宿場町が整備されていくのであり、慶長6年(1601)には徳川家康の宿駅制度化により東海道53次の宿駅、関地蔵宿として発足し、参勤交代や伊勢参りなどの交通の拠点として繁栄していった。
江戸初期には亀山藩領であったが、元和元年(1615)から幕府領、寛永13年(1636)からは再び亀山藩領となり、明治維新を向える。
関町の町並みは両端をそれぞれ追分で限られ、西の追分では鈴鹿越えの東海道と加太峠越えの大和街道が分岐し、東の追分は東海道と伊勢別街道が交差し、それぞれに道標が残されている。
町並みの基本構造は天正年間(1573〜1592)に関盛信が付近の道路を改修し、木崎と新所の間に町(中町)を造ったもので、木崎・中町・新所の三町で関宿は構成されていた。中町には本陣2・脇本陣2や問屋場などが置かれ、主だった旅籠が集中していた。寛政12年(1800)には旅篭屋数55軒の内、中町に37軒・新所12軒・木崎6軒であった。
家数・人数は寛文11年(1671)493軒、享保8年(1723)545軒、寛政7年(1795)520軒・1824人で、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、町並の長さ15町13間、家数632戸、人口1942人、本陣2、脇本陣2、旅籠42と記録され、東海道屈指の宿場町であったことがわかる。そして旧東海道の宿場町が殆ど旧態をとどめないなか、関では今なお東西の追分間約1.8kmにわたり、当時の宿場町の面影をそのまま伝える町並みが残っている。
町家の建築年代は最も古いもので18世紀中頃と見られ、19世紀初頭以降明治中頃までのものが多い。関町の町家は中二階建て、又二階建の平入りが一般的で、一部には平屋のもの、妻入りのものも見られる。
漆喰塗り込めで虫籠窓を持っていて、独特の意匠をもった虫籠窓が目につく。
関まちなみ資料館は江戸時代の町家を復元したもの、切妻造り、平入り、中二階建て、一階に連子格子、二階に虫籠窓を付け、帳場、箱階段、つし、かまど、井戸、ばったり(床几)などを配し昔の商家のムードを再現している。旅籠「玉屋」歴史資料館この玉屋は江戸時代より関宿で最も栄えた旅籠の一つである。二階正面壁面は塗籠めではなやかな虫籠窓を付けていて、玉の紋様は店のしるしである。
関町にはゴチャゴチャした土産屋などがなく、電柱のない昔のままの古い町並みがのこっている。全く江戸時代の風景であるのに、実際その町や町家で生活されている。只、平成9年に訪ねたときより、町並みの修復が進みきれいになっていたが、こんどは観光バスでやってくる団体さんが、我がもの顔で古い町並みを観光地と思ってカッポされる。保存の問題の原点であり、今後の成り行きを見守りたい。でも歴史や伝統が今に残った町並みの中をゆっくり散策するのが、町並みを見る醍醐味であることには変わりない。


中町の旧鶴屋脇本陣

木崎町の町並

中町の町並み

中町の饅頭屋

中町の町並み

中町の町並

鈴鹿越えの東海道と加太越えの大和街道、それに伊勢街道との分岐点であった関宿は、東海道有数の宿場町として繁栄した。その名の通り、古代から「鈴鹿の関」が置かれた要衝の地である。

大和街道

伊勢街道

東海道

西の追分から東の追分まで、1.8キロの距離に渡り、宿場町の町並みが延々と現存する。玉屋(写真2枚目左側)、会津屋を初めとする旅籠屋もその姿を今にとどめる。宿場町として、規模、質ともに全国屈指の町並みである

一部だけが擬洋風建築調になっていたりする、変わった町家もいくつか見られる。唐突なようだが、実際には町並みに溶け込んでいてさほどの違和感はなく、むしろ歴史の重層性が感じられて面白い。なお「旧バージョン」に、「関の山」の語源となった山車の写真が掲載してあります。

留め女

宿場には多いところだと数十軒の旅籠が建ち並んでいました。いまとは違い情報の乏しい時代ですから、前もってどこそこに泊まるということはあまり考えられず、当日その場でどこに泊まるか決めていくのが通常でした。当然客引きも多く、競争もはげしくなります。

留め女は、客引き専門に行う女性のことで、派手な化粧をして旅籠の前にたち、客を宿に引き入れることを生業としていました。

飯盛り女

飯盛り女とは宿屋の給仕女のことで、宿泊人の食事の世話をする女中との名目で宿屋に抱えられていた者をいいます。旅籠一軒につき二人までというのが原則でした。

後にはいわゆる娼婦のような形になり、旅籠屋のなかには売春宿となんら変わらない状態のものまで現出するに至りますが、基本的には、客は自宿にとまった者に限定されていたこと、そしてあくまで客と飯盛り女の間での自由な直接交渉によるものであったということで、娼婦とはまた違った形態だと言えます。

旅籠のなかには飯盛り女を置かないことを売りにした旅籠も当然ありました。そこでそのような旅籠を区別して「平旅籠」、置いてある旅籠を「飯盛り旅籠」と呼ぶこともありました。

当時の旅において、飯盛り女はやはり旅の楽しみのひとつだったらしく、さまざま文献に当時の様子が描かれています。

【関の追分】

宿場に入ってすぐ左手に,伊勢神宮一の鳥居があった.ここから伊勢への参宮道が通じている.
日永の追分だけでなく,関宿からもお伊勢さんに参宮する道があったとは知らなかった.こんな風に道が付けられていると,無信心な者でも,参宮道をたどろうかと,思い立つ旅人が多かったのではなかろうか.
こうなると,日永と関にショートカットされた区間にある石薬師と庄野を通る人は益々少なくなってしまう.
 さらにこの宿場の西の出口には西の追分があって大和への道が通じていた.
おそらく江戸から来た旅人の多くは,弥次さん,北さんと同じように日永の追分から伊勢参宮道をたどり,伊勢へ向かっただろう.
伊勢からは大阪へ出て,京に上るか,関への参宮道を通り, ここ関の追分を経て京に上ったか,そんな旅をしていたのだろう.
大阪,京方面から伊勢へ参宮する人々も関を通過しただろうから,往時の関宿はよほど栄えた宿場だったに違いない.
次の亀山は城下町で,少し固苦しいこともあって宿泊は, 関にする人が多かったそうだ. 便利な宿もあったようで
「関で泊るなら鶴屋か玉屋, まだも泊るなら会津屋か」と歌われている.
 そして, ご他聞にもれず娼家も多かった. いわゆる飯盛り女を置く旅籠ではなく, 上店( うわや) といって,呼びだしを受けて娼婦を派遣する娼家が5 軒もあった.
こんな宿場は珍しい.
幕末の頃だが, 上店だけでなく,飯盛り女を置く旅籠も50軒を数えたそうだから, 一大歓楽街の様相を呈していたに違いない.
 「関は千軒女郎屋が5 軒, 女郎なくては関立たぬ」とまで歌われている.

和田光平さんの談
【山田屋の小万】
和田光平さんの談

先の歌で会津屋と歌われた宿場の茶店が街道の右手にあった. ここは昔山田屋さんと言って, 小万が店先に出てお茶を入れていたお店の跡だった.
 現在は, その隣に茶店が作られているので, 立ち寄って当時を偲ぶことができる.
もっとも,お茶を出してくださるのは,年配のおばさんだった.

関の小万の名は,近松門左衛門の淨瑠璃にもなっているが,実際の仇討ち話とは多少異なるようだ.史上起こった仇討ちは,およそこんな風だった.
江戸で,久留米藩士小野元成に牧藤左衛門が殺された.
藤左衛門の妻は, 身重の体で仇を追って関まで来たが, ここ山田屋さんで逗留中に女の子を産み落として亡くなった.
 山田屋の主人は, この不憫な女の子を引き受け, 小万と名付けて養育した.
やがて小万が12歳になると亀山藩の加毛寛斎のもとに剣術修行に通わせた.
 「関の小万が亀山がよい, 月に雪駄が二十五足」とは鈴鹿の馬子歌のひとつだ.
 次第に彼女の修行ぶりが評判になった.
それを聞きつけて, どうしたものか仇の小野元成が亀山城下に現れた. 評判になった小万を一目見てみたい誘惑に勝てなかったのだろうか.
小野は,眉間の傷と抜き難い九州弁が証拠となって仇と見破られ,18歳の小万は, 師匠の加毛寛斎の助力もあって, ついに親の仇を討つことに成功した.
寛政7 年(1795)8 月17日の出来事であった.
一説には寛政10年(1798)2 月15日とも言われる.
 18歳でたちまちヒロインとなった彼女には縁談が引きも切らなっかったらしいが, 何故か, 生涯独身を通し, 山田屋の店先で働き続けた.
 それがまた評判となって, 一度は関宿に行って小万に会いたいと思う旅人が,山田屋にやって来たそうだ.
彼女は, 独身を通すことで人気を維持し,山田屋の主人に恩返しをしたのだろうか.
小万は, こうして働いていたが享和3 年(1803)38歳の若さで亡くなった.
 お墓は福蔵寺にあった.
会津屋( 元の山田屋) さんの手前を北に入った所にあるお寺だ.
境内にはまだ新しい女剣士の姿を刻んだ石碑があった.
その横に,小さな石にお地蔵さんが彫ってあるのが小万の墓だった.
ひっそりと時代の流れに隱れるように,苔むしたまま安置されていた.

 関宿では, 小万の記憶を大切にした. 山田屋さんを始め10軒もあった茶店は, この宿に雇われて来た女性の中から, よりすぐって美しい女性だけを茶店に集め, 皆小万と名乗らせ, 店先の給仕をさせた.
女郎か飯盛り女が売り物だった歓楽街にあって, 小万たちだけは, 土地の若者,旅人を問わず清らかな存在で有り続けた. それが関宿のしきたりであった.
こんな形で, 関宿の人々は, 小万を誇りとしたのだった.

関まちなみ館
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関の山
関の山とは、成し得る限度。精一杯のところ。

(1)関町から八坂神社の祇園祭に出される山は、大変立派なものだったため、それ以上贅沢な山は作れないないだろうと思われ、精一杯の限度を「関の山」というようになった。
(2)鈴鹿越えを前にして、この険しい鈴鹿の山を見て,もうこれが「関の山」だ,限界だと感じたことから生まれた言葉ではないか?