(6)藤沢 ⇔ (0)日本橋
衛星写真 (47)関、水口、土山、坂下、(51)石部
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坂之下宿:坂下宿は東海道48番目の宿場で、難所の鈴鹿峠の東麓にあり旅人で賑わったが明治以降近代交通の発達で徐々に衰退して、現在では数十件の民家があるだけとなった。
なお坂之下宿は江戸の延20年間亀山藩領であったが、それ以外は幕府領となっていた。
鈴鹿峠越え:古代の鈴鹿越えは、加太川に沿って多くの瀬を渡る、険しい「加太越え」であったが、都の移転で886(仁和2)年「阿須波道」と呼ばれた現在の鈴鹿越えが開通した。
これによってこの峠一帯の名称が鈴鹿山と呼ばれるようになった。
人馬駄賃(運賃):1611(慶長16)年、幕府によって街道筋の人馬駄賃の規則が定められたが、坂下宿は気象の変化が激しく、峻険な鈴鹿峠越えを要したため、他の宿場より割高な駄賃が認められた。
 本陣:3、脇本陣:1、旅籠:48、人口:564人

歌川広重 保永堂版より「阪之下・筆捨嶺」
坂下 筆捨山  1910年代撮影

坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る

関の地蔵さんに振袖着せて, 奈良の大仏さんを婿に取る

さん提供の坂之下観光案内

広重、坂之下、筆捨嶺
関宿を出て国道1号線を鈴鹿峠に向かうとやがて
右側に見えて来るのが筆捨山である。左は国道1号線ですが
旧東海道をそのまま拡幅したもののようだ。右下は八十瀬川です。
筆捨山バス停前の民家から見た筆捨山の近景、
大きな岩肌が、新緑に映える木々の間からあちこちに現れ、
広重の絵のごとく、まるで岩石の合間に樹がある感じである。
場所も絵のようにこのあたりではないでしょうか。
町並みが途切れ、右折していよいよ鈴鹿峠へ
行く道の角にこの新しい鈴鹿馬子唄会館がある。
旧東海道鈴鹿峠まで2.6キロと記されている。
右折してすぐこのような木柱が約5メートル間隔で
55本、日本橋から順番に京都まで宿場名が
書かれて、立ち並んでいる。
旧東海道坂下宿を下ると間もなくこの杉並木がある。
当時の風情が偲ばれる。平成10年4月26日撮影
坂下宿には写真のように旧東海道に沿って本陣跡が
3軒が並んでいます。
国道1号線坂下インターから見る坂下宿の町並み、
下の道路は1号線上り亀山方面へ(右)、坂下では
国道の上下線の落差が100メートル位あります。
坂之下宿から夕映えの鈴鹿峠を望む、
逆光のため不鮮明(午後6時ころ撮影)
坂下宿から鈴鹿峠へ向かう(右へ)国道1号線
下り線を望む。平成10年6月7日撮影
亀山市関町坂下の町並み

東海道坂下宿は53次の宿場町として繁栄していたが、明治23年に関西鉄道が開通すると、宿場町としての機能は急速に衰退し、今では消滅しかかった町並の様相を呈していた。
坂下村に置かれた坂下宿は鈴鹿峠直下の宿場で、鈴鹿峠を越えて近江国土山宿へと通じていた。
慶長6年(1601)の東海道伝馬制度設定によって宿駅に指定されたが、室町時代からもうこの地は宿駅の機能を持っていた。慶長15年(1610)〜元和元年(1615)、寛永13年(1636)〜慶安元年(1648)の間は亀山藩領であったが、それ以外は幕府領であった。

天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると、153軒のうち本陣3(大竹屋・梅屋・松屋)・脇本陣1(小竹屋)・旅籠屋48(大旅籠2、中旅籠9、小旅籠37)であり、総家数に対する旅籠屋の割合は34%にものぼり、東海道では箱根に次ぐ高率の宿場町であり、伊勢国・近江国の国境で難所鈴鹿峠を擁した重要な宿場で非常に賑わっていた。そして住民の殆どは旅人相手に生計をたてていた。とりわけ大竹屋本陣は「家広くして世に名高し」「本陣は海道第一の大家也」などといわれた東海道屈指の大本陣であった。
慶安3年(1650)の大洪水によって宿の大半が壊滅したため約1km峠下の現在の地に移ってきたものである。宿の町並は長さ5町56間であった。文化2年(1805)に大火があり、本陣3・脇本陣1などが焼失し、幕府から宿復旧費1,300両が貸し付けられている。
家数・人数は延享3年(1746)には160軒・584人。宝暦10年(1760)には158軒・611人。天保9年(1838)には152軒・543人。天保14年(1843)には153軒・564人であった。
脇本陣ははじめ鶴屋が就役したが、明和2年(1765)に休役したので、小竹屋が引き継いだ。
明治初年に宿駅制度がなくなり、明治23年に関西鉄道が開通し、東海道の交通量が激減したため過疎化が進んだ。明治22年の戸数312軒・人口1,250人だったのが平成17年4月では
戸数89軒・人口147人となってしまった。
宿場町だった辺りを歩くと、東海道一と言われた大竹屋本陣跡や梅屋本陣跡は茶畑になっていたし、小竹屋脇本陣跡は畑に、松屋本陣跡は集会場になっていた。大規模な宿場だったので、かって家が建っていたと思われる個所が多くあるが殆どは畑になっていたり、そのまま放置されていて、雑木林の中に石垣があったりと、寂れてしまった宿場町を目にすることができる。
主屋が無くて、土蔵だけが残っているのを見ると、寂れてしまったのだなあ、時代の流れに取り残されるとこのようになるのかと感慨無量になる。
でも所々に出桁造りの家屋が残っていたり、格子戸を備えた家をみるとほっとした。


関町坂下の町並

関町坂下の町並

関町坂下の町並

関町坂下の町並

関町坂下の町並

関町坂下の町並

関町坂下の町並

関町坂下の町並

さん提供