(6)藤沢 ⇔ (0)日本橋
衛星写真 (47)関、水口、土山、坂下、(51)石部
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土山宿(つちやまじゅく)は東海道49番目の宿場(→東海道五十三次)で、現在は滋賀県甲賀市(旧土山町)。

明治の鉄道交通では、坂下宿同様、鈴鹿峠の急勾配が蒸気機関車の仇となり、西寄りの寺庄経由となった。

鈴鹿峠下り
鈴鹿峠を越えると滋賀県甲賀市土山町に入る。
道は三重県側と打って変わり、緩い下りで視界が開け、
茶畑が広がる。国道トンネルのすぐ上には、 あずま屋と大きな石灯籠がある。
土山町土山町

まもなく旧街道はトンネルを出た国道と合流する。
しばらくこの歩道を歩くことになる。やはり峠を越えるとこちら側は天候が悪い。
ここでちょっと雨がパラパラと来たが、10分くらいで止んだので助かる。
土山町土山町

しばらく国道を歩くと、前方に大きな高架橋が見えてくる。
第二名神高速(工事中)だ。すると右斜めに入る旧道がある。
入ったところは小さな公園になっており、観光案内地図・歌碑やベンチなどが設置されている。
土山町土山町

高架橋をくぐるとまた国道に合流するが、そこにも石灯篭や道標が立てられている。
このような石灯篭や石の道標があると、街道を良く感じさせる。
旧街道は本来はここで国道を横切っていたようだが、
今はその道は行き止まりになってしまっている。
土山町土山町

国道を歩いて行くと右下に猪鼻の集落が見えるようになるが、
街道は分断されているようで入口がわからなかったため、出口だけを確認する。
土山町土山町

この先、ちょっとした峠(峠名不明)を越えると右に旧道が分岐し、
蟹坂集落に入る。旧道に入ると喧騒が無くなってほっとする。
しかし、驚いたのは野猿の10頭くらいの集団が道路や民家の屋根を
飛び回っているのだ。山奥では無いこんな集落の中なのに、
住民の人たちは困っているだろう。
土山町土山町

さらに進むと田村川を渡るところで行き止まりで、
現在新しい橋を工事中でした。この橋が完成すればすぐ先が田村神社の森になる。
左に直角に曲がって国道に出ると、すぐに道の駅「あいの土山」に到着だ。
時刻は15時ちょうど。街道歩きも寒かったのでこのような休憩施設は大変に助かる。
ここで30分ほどの小休止で、テーブルに国土交通省の旧街道に関する
アンケート用紙があったので記入する。
旧街道(特にマイナーな)にも適切な道標や休憩施設を置いて欲しい
ことなどを記入して投函した。
ここで土山宿の絵地図をゲットする。
この地図はアコーディオン状に折ってある横長のもので、見やすいタイプだ。
この駅は熱いお茶は無料だし、窓口の応対も親切であった。また、まんじゅう2個を戴いておやつだ。
土山町土山町

土山宿
道の駅の裏を回り込むように行く旧街道に入って行くと、
路面や案内板が良く整備されている。電柱こそ撤去はされていないが、
通りに面した各戸とも最近になって改装したようで関宿に比べて新しく見える。
(窓がアルミ製のカラーサッシが多いようです)
土山宿土山宿

珍しくここには街中に一里塚があったようだが、今はさすがに石柱のみである。
土山宿土山宿

この宿はほとんどの各戸に屋号が掲げられており、
古い家並みを良く表現している。本陣も複数あったようだが、今は跡の石柱が立っている。
土山宿土山宿

この宿場町も通りが長く、2Kmはあるので結構見でがある。
道の駅から歩くこと50分で国道に合流です。
土山宿土山宿

多賀道分岐
この先、少し先で右へ分岐する「多賀道」に入ってみた。
1Kmも行かないうちに野洲川に突き当たって行き止まりになるが、
街道の雰囲気はあるところだ。途中にある案内標識には「東海道」と表示されているが??
(注意として「この先行き止まりに付き、下流側の歌声橋に迂回して下さい」と書いてある)
本日の歩行はここまでとし、土山西口バス停より16:54発の貴生川駅行きのバス
(あいくるバス)に乗車して帰途に着いた。
(最近はネットで地方のバスの時刻表を確認できるので旅の予定が立てやすい)
土山宿土山宿
<平成17年1月>

さん提供の観光案内

坂上田村麻呂

坂上田村麻呂(さかのうえ・の・たむらまろ。天平宝字2年(758年) - 弘仁2年5月23日811年6月17日))は、平安時代武官である。名は田村麿とも書く。 中央で近衛府の武官として立ち、793年陸奥国蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任の征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を討って降した。802年胆沢城803年志波城を築いた。810年薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。

田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており、延暦8年(789年)には紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり、延暦11年(791年)に大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、延暦12年(793年)に軍を進発させた。この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人ながら中心的な役割を果たしたらしい。