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衛星写真 (47)関、水口、土山、坂下、(51)石部
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水口宿(みなくちじゅく)は東海道50番目の宿場(→東海道五十三次)で、現在は滋賀県甲賀市

石橋を境に、東側は道が三筋に分かれた宿場町、西側は水口城の城下町で道が鍵の手になっていた。

羽柴秀吉の命により中村一氏1585年天正13年)、甲賀郡の支配の拠点として築き、入城した。その時、平安の昔から、都から伊勢へと通じる街道の要所として栄えていた宿場町水口の原型をつくった。その後1585年(天正18年)に増田長盛が、1595年文禄4年)には長束正家五奉行を務めた2人が相次いで入城している。

関ヶ原の戦いでは長束正家は西軍に属し、関ヶ原に布陣していたが戦闘には参加できず水口城に敗走した。水口城は追ってきた池田輝政に攻められ、長束正家が自ら放った火により落城した。

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みなくちお散歩マップ
横田常夜灯 一里塚跡(林口) 国登録文化財 ヴォーリズ設計 水口教会 姫塚 力石(水口石) 枯山水さつきの庭 大池寺蓬莱庭園 枯山水さつきの庭 大池寺蓬莱庭園 国登録文化財 ヴォーリズ設計 旧図書館 安藤広重の錦絵東海道五十三次の水口宿にはかんぴょうを干す女性が描かれています。 新水口宿公園 水口のお土産
水口城資料館 図書館・歴史民俗資料館:曳山をはじめ水口の民族資料を展示 水口城跡:寛永11年(1634年)の三代将軍家光上洛下向時の宿館として築き、天和2年(1682)より水口藩の城となる。 4月20日に行なわれる水口曳山祭りは、県の無形民俗文化財に指定され、二層露天式人形屋台の豪華な曳山が町内を巡行し、水口宿の町衆の心意気を今に語り継がれる伝統の祭りです。 藤栄神社:水口藩主加藤氏の祖、加藤嘉明を祀った社 曳山山蔵 みなくち子どもの森 水口スポーツの森 甲賀市役所のホームページはこちら 4月20日に行なわれる水口曳山祭りは、県の無形民俗文化財に指定され、二層露天式人形屋台の豪華な曳山が町内を巡行し、水口宿の町衆の心意気を今に語り継がれる伝統の祭りです。 国登録文化財 ヴォーリズ設計 旧図書館 本陣跡・脇本陣跡 高札場跡 三筋の辻広場からくり時計 本水口地区からくり時計 天正13年(1985)豊臣秀吉の命により中村一氏が築く、この時に水口の町の原形が出来たといわれる。 旧水口宿の町並み 東見附跡 磨崖仏 天正13年(1985)豊臣秀吉の命により中村一氏が築く、この時に水口の町の原形が出来たといわれる。
歌川広重 保永堂版より「水口・名物干瓢」

水口  1910年代撮影

水口町の町並み

滋賀県の南東部に位置する水口に休泊機能ができだしたのは、伊勢参宮のための通行が繁くなったためで、当時はこの街道を「伊勢大路」と称した。室町時代のことと考えられる。
天正13年(1585)、天下統一の途上にあった羽柴秀吉は、家臣中村一氏に大岡山に水口岡山城を築かせた。その地は鈴鹿峠から蒲生郡一帯を一望することができる要衝であった。 中村一氏は築城とともに城下の整備に努めたと考えられ、東海道を中心として街区を整え、近隣から商人などを集住させた。後に宿場町の中心となったのは城下として、整備された部分であり、水口独特の三筋の道路もこの時期に成立したものと考えられている。
城主は一氏のあと増田長盛、長束正家とつづいた。いずれも豊臣政権の五奉行の一人であり、この城が重視されていたことがうかがえる。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際しては、時の城主長束正家が西軍に参加したため落城してしまった。

関ヶ原の戦い後、家康は、すぐさま水口を直轄地とし、翌6年には東海道の整備にともない、水口をその宿に指定したのである。
東海道を中心に東西にのびる道路を挟んで両側町が形成され、延宝7年(1679)の記録によれば家数718を数え、中山道が分岐する草津宿よりもその規模は大きかった。しかしそのピークは寛永年間(1624〜44)とされ、三代将軍家光の上洛、参勤交代制度の制定などあり、後に水口藩の成立にともなう武家地がこれに加わり絶対人口は増加したが、町勢そのものは徐々に落ちていった。
水口は宿場町と城下町の顔を併せもつ町であるが、「京立ち石部泊まり」の言葉が示すように、石部・土山両宿の間にはさまれ、中間的宿駅の地位に甘んじ、宿泊地としてはいまひとつふるわなかった。
天保14年(1843)の宿村大概帳によれば、宿内家数692軒・人数2,692人・本陣1・脇本陣1・旅篭41軒であった。
水口宿で特筆すべきは水口城である。水口城は軍事的や支配の中核としての城でなく、徳川将軍専用の宿館・御茶屋であった。家康は江戸と京・大坂との度重なる往返に際し、ここ水口を休泊の地に選んでいるが、開宿後も宿内の民家や寺院を利用していた。
しかしその後の通行は大規模となり、道中の要所に専用の宿館である御茶屋が設けられるようになった。寛永11年(1634)の三代将軍家光の上洛に際しては新たに御茶屋を築くことになった。これが水口城である。
城普請は文人旗本 小堀遠州があたり、湧水の堀をめぐらせた名城で、「碧水城」とも呼ばれた。その構成は京都二条城を小さくしたようなものであった。このように贅を尽くした水口城であったが、家光が上洛帰途に一泊しただけで、本丸殿舎も撤去されて、矢倉や門などが明治維新まで残っていたが、維新後はついに廃城となった。
宿場に関する建物では、大池町にあった問屋場や宿東部の作坂町(現在元町)にあった本陣(鵜飼氏)は明治時代に撤去されたが、おなじ作坂町(現在元町)の脇本陣の建物はわずかながらも往時の面影を偲ばせ、鍵町(現在本町)に東海道で現役最古ではないかという、元録13年(1700)創業の旅篭、枡又旅館がある。江戸時代の旅篭屋の姿を今日に伝えている貴重な建物であり、水口宿マス屋旅館枡屋又兵衛と木製の大きな看板を揚げていた。
古い町並は多くは残っておらないが、宿東部の元町の脇本陣を中心にした辺りは、宿場町の名残のある町並みである 。


元町の町並み

元町の町並み

梅ヶ丘の町並み

元町の町並み

元町の町並み

本町(元鍵町)の旅篭(現役)
干瓢(かんぴょう)

かんぴょうの歴史

かんぴょうを干している絵

いまから約280年前の正徳二年(1712)、近江の国(現在の滋賀県)の水口から下野の国の壬生へと領地換えとなった藩主鳥居忠英がかんぴょうの種を水口から取り寄せ、壬生領内でつくらせたのが始まりと言い伝えられています。

鳥居忠英公
この他にも、さまざまなかんぴょう栽培にまつわる説がありますが、現在まではっきりしとした説はわかっていません。しかし、栃木県南部の上三川、石橋、南河内、国分寺、壬生を含む地域が今日かんぴょうの一大生産地となっていることを考えると、この地域の気候土地が日本のどの地域よりもかんぴょう栽培に適していたのでしょう。

かんぴょう作り

7月初旬から8月下旬はもっとも忙しい時期です。午前3時頃からふくべをひも状にむいていきます。むいたものをすぐにほぐさないと互いにくっついてしまいます。 むいたかんぴょうを竹竿にていねいに干します。 午前3時頃からむき始めて7時頃まで続きます。
昔は天候に左右された天日干しですが、現在は広いビニールハウスで作業ができます。

夕顔の花