(6)藤沢 ⇔ (0)日本橋
衛星写真 (52)草津、(53)大津、京都三条大橋
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草津宿(くさつしゅく、くさつじゅく)は東海道52番目(→東海道五十三次)、中山道68番目の宿場(→中山道六十九次)、現在は滋賀県草津市。本陣は国指定史跡

東海道の江戸方からは、草津川を越えて、堤防沿いに進むと、東横町・西横町と続き、中山道との合流点に至る。ここで左折し、一町目から六町目まで続き、宮川を渡って、最後が宮町である。中山道からは、天井川である旧草津川をトンネルで抜けると追分に至るが、トンネルができたのは1886年(明治19年)のことである。

草津市の町並み

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、福島正則が草津を掌中におさめ、翌慶長6年(1601)宿駅制が定められ、近世の交通体系の整備とともに、草津宿が東海道の宿駅として位置づけられた。その後は参勤交代の制度とともに宿の形態や機能の充実が図られた。
正徳2年(1712)六代将軍徳川家宣は全国の主要街道に貫目改所を置き、物資の動きをチェックすることにし、草津宿には品川宿・府中宿とともに重要地として改所が設けられた。

草津宿は京側より宮町、六町目、五町目、四町目、三町目、二町目、一町目、西横町、東横町の九ヶ町からなる。町並みは天保14年(1843)の『宿村大概帳』によると、南北七町十五間(約800m)東西四町三十八間(約500m)で近江の宿駅の中では最も短い。本陣二軒、脇本陣二軒、旅篭七十二軒を数え、四町目に問屋場・貫目改所、二町目・一町目にそれぞれ本陣があった。脇本陣は江戸時代を通じて推移はあるものの二軒から四軒が一町目から三町目に立地していた。
このように草津宿では、本陣・脇本陣などの休泊の機能は一町目から三町目に、問屋や人馬継立ての機関は四町目あたりに立地していた。貫目改所は草津宿問屋場に併設されていた。街道を往来する荷物の重量を検査するとともに、一種の関所的な役割も果たしていた。
本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣であったが、九蔵本陣は明治以降に絶えて、建物も姿を消してしまい、七左衛門本陣だけがほぼ完全な姿を今に残している。田中七左衛門本陣は本陣職を拝命したのは寛永元年(1624)からだから、東海道整備初期から本陣をつとめた家だ。間口14間半、敷地1305坪、建坪468坪で部屋数39室であって、本陣職のかたわら材木商を営み、そのため「木屋本陣」といわれた。そして明治3年に廃止されるまで246年間本陣職をつとめている。
草津宿は商店街になってしまって、江戸の面影は殆ど残っていない。しかし草津宿から京都側の東海道筋の矢倉あたりは、草津宿に続く街道の町で宿場ではないが、古い伝統的な中二階建、虫籠窓、格子を持つ商家が軒を並べていて街道の面影をよく残している。ここは宿場に続く商業の町だったことがわかる。
四町目から一町目にかけては、問屋場・貫目改所亦四郎の屋敷、脇本陣・柏屋十右衛門、三度飛脚取次処・荒物屋九右衛門、本陣田中九蔵家、脇本陣・仙台屋茂八家、脇本陣・藤屋興左衛門家、脇本陣・大黒屋弥助家、本陣田中七左衛門家などがあった。
今は本陣田中七左衛門家が殆ど完全な形で残り、その他は商店街に埋もれてしまい、江戸時代の面影は全く無くなっていた。
中山道との分岐を東に進むと横町である。この町は江戸中期以後に整備されたもので、この横町の東端あたりが東海道草津宿の江戸側の入口であった。京都側の宿入口には、黒門があって遠見遮断が施されていた。
矢橋港は近江八景にも出てくる「矢橋帰帆」の場所で、草津宿に続く矢倉から分岐して琵琶湖へ出て、大津石場への渡しが発着した港だ。 


草津宿旧五丁目辺りの町並み

田中本陣前の町並み

草津宿田中本陣

旧五丁目辺りの町並み

矢倉の町並み

矢橋の町並
草津本陣

天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると、本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠七十二軒を数え、南北七町15間半(約八百メートル)・東西四町三十八間(約五百メートル)のL字型の形態をとる宿場でした。

 宿駅機能を担う施設としては、四町目に問屋場・貫目改所、二町目及び一町目に本陣が設置されていました。

- 座敷広間 -
本陣座敷棟には、西広間・東広間と称するそれぞれ三つの畳の部屋で構成されている座敷広間がある。これらの座敷広間は、本陣での休泊者のために用意された部屋で、北側上手には、西・東広間いずれにも床の間が設けられている。また、それぞれ襖によって間仕切りされており、室外に面した間仕切りには低腰障子が配されている。その外側には西広間で板廊下、東広間に置いては濡縁が取り付けられている。座敷広間の壁は十二畳半と一番広い空間を有する西広間の間を除くすべての部屋が聚楽壁(赤壁)であるのに対し、西広間の三間では、玄関広間の壁化粧同様、柏大葉の張壁によって仕上げられている。

- 上段の間 -
上段の間は、本陣建物の中で最も格式の高い部屋である。畳廊下の突き当たり上段棟の左側に位置し、大名の休泊に使われた。従者の宿泊する部屋より框で一段床を高くした、広さ八畳の部屋である。中央には二畳の置畳を設置し、正面に向かって左手に一間の違い棚、右手に一間の床を配し、床の横には付書院を設けている。天井は格天井で漆塗り、鞘の間側の腰障子には、松村影文によって秋海堂が描かれている。引き手は飾り金具で装飾を施し、四隅の柱には蚊帳つり金具が付けられている。

- 住居玄関広間・店の間 -
台所口の大戸をくぐりぬけると右手に本陣職を勤めた田中家の住居部がある。通り土間に面し、街道側から店の間、式台取り付けの玄関広間、帳場、台所の間と順に並んでいる。店の間は五畳敷きで、本陣職のかたわら材木商を営んでいたところから、接客用の間であろうか。左手の式台取り付けの住居部玄関広間は五畳の広さで、土間から相の間を挟んで奥の間(仏間)が望める。帳場の間の隅には、半畳ほどの板蓋が張られ、その下に帳簿や金銭など貴重品を収納したと思われる、深さ一尺ほど(約三十センチ)の木製の収納庫が造りつけられている。

- 台所土間 -
台所住居部の東西に分かつ一間半幅の通りの土間の北奥に位置する台所土間には、五連式の竈のほか、三宝を祀った竈が配されている。竈の東側には、調理具や食器などを整理したと考えられるもの入れや、薪を収納する柴入れが配され、北側には、流し・水甕・井戸といった流し周りの施設が残されている。土間台所の全体は吹き抜けで、天井をつけておらず、竹簀子野地による屋根裏見せで、三宝を祀った竈の上部の屋根裏は、壁土で厚く塗りこまれ、火の粉による火災防止の策としている。

本陣は、公家・大名をはじめ貴顕の休泊施設で、史跡草津宿本陣として現存する一町目西側の田中七左衛門本陣と、現在その姿を目にすることのできない二丁目東側の田中九蔵本陣が、江戸時代を通じて存在しました。

大福帳
関 札

本陣を補完する脇本陣は、時勢により変化は見られるものの、一町目から三町目に二軒ないし四軒が設置されていました。

 旅籠屋は一町目から六町目にあり、多いときには百三十二軒を数えたときもありました。

草津という名
湖南地域に位置する草津は、南西端に少し丘陵地がみられるだけの低平な土地で、市内には葉山川や草津川など多くの河川が東から西の琵琶湖へ流れています。

「草」には自然発生的に生まれてきたという意味があり、また「津」には船着場、渡船場などという意味と「市」のように人の集まる所、人の往来が多いところを表し、多くの人が集まるにぎやな所であったことが伺えます。
草津という名前が出てくる最も古い文献は1299年に完成した「一遍上人絵伝」で、一遍一行が東国巡歴ののち、美濃をへて京都に向かう途中に草津において夜中、雷にあい、一遍の夢の中に出てきた神様が、一行の不信者のものを罰し病気になったものが多く現れたと記しています。
東海道近江八景一覧之図  歌川 貞秀 画
平安時代の和歌には
「もののふの矢橋の舟は早くとも、
急がば廻れ勢多の長橋」
と詠まれ琵琶湖の不安定な気象によって水運は敬遠されていましたが、江戸時代になって湖上水運の安全が確保されていくと「近江名所図会」でも描かれてるように多くの人が大津〜草津間の早道として利用していました。
(勢多橋周りより3時間ほど早く着けたそうです。)
近江の国野路玉川 歌川 豊国 画
平安時代末期、草津が宿場として栄える以前は、「野路」が交通の要衝として重要な位置づけをされていました。「野路」とは大津市瀬田の玉野浦あたりから玉川(野路)までの玉野路が略されて「野路」といわれたらしく「平家物語」や「源平盛衰記」に合戦場の名としてしばしば登場します。
また、萩の花の名勝地として多くの和歌に詠まれ現在も東海道筋に萩の玉川として旧跡が残っています。

万葉集をはじめ今昔物語集などに見られる「矢橋」は近江八景の「矢橋の帰帆」として有名ですが、湖上の港として古くから賑わいを見せていました。