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歌川広重 保永堂版より「京師・三條大橋
三条大橋 1910年代撮影
歌川広重 京都名所之内「四條河原夕涼」
撮影データ不明
京都駅 撮影データ不明
京都上賀茂の町並み

上賀茂神社は京都市街の最北部、賀茂川にかかる御園橋の北東部にある。
下賀茂神社(下社)に祀る玉依姫命の子 別雷神を祭神とする。。上・下社を「賀茂社」と総称することもあり、賀茂氏の祖神を祀ったと考えられている。創祀は不明であるが、社伝では天武天皇6年(678)に社殿を造営したと伝える。

上賀茂神社の境内を流れる清流「ならの小河」は百人一首の藤原家隆の歌にある「風そよぐならの小河の夕暮れは ……」で「ならの小河」は上賀茂神社境内では楢の小川、境内をでると明神川と名を変える。神官たちはこの川の水で、神道の「みそぎ」行っていた。それは屋敷に引き込んだ明神川の水をかぶって身を清めたのだ。
ここに並んだ屋敷にはそれぞれ庭園があって、水が流れ池があったりする。つまり明神川の分流の水で「みそぎ」を行ったのである。
道路の北側の屋敷もまた社家なのだが、明神川に沿ってないだけに、川の水が利用できないので、庭園は枯れ山水として造られていた。
現在 明神川沿いに見られる風格ある石橋・土塀や門、切り妻造りの棟の低い主屋、土塀の奥に見える緑豊かな樹木等、これらは全て社家と社家町を象徴する貴重な歴史的遺産である。
明神川沿いに並ぶ社家屋敷の中程に西村家別邸がある。錦部家の旧邸(現在は西村家別邸)は現存する社家の中では最も昔の面影をとどめる庭園が残っている。この庭は養和元年(1181)上賀茂神社の神主(現在の宮司)藤本重保が作庭したものと推察される。公開されているのはこの一邸のみである。
上賀茂神社に仕えていた社家の家屋もあった。安永年間(1776〜81)に描かれたと伝える「賀茂社家宅七町大旨之図(写し)」には現在位置に描かれていることから、この屋敷はそのころより変わっていない。主屋には鳥居型の内玄関と式台を並べ、また、妻面を柱と貫で飾るなど社家住宅としての外観を整えている。建築年代は江戸後期のものと推定される。
また、「賀茂七家」に数えられていた社家も健在で、現主屋の建築年代は不明であるが、天保9年(1838)頃にはほぼ現在の形になっていたと思われる。「賀茂七家」のなかでは現存唯一の遺構であり、昭和61年市文化財に指定された。


上賀茂社家町の町並み

社家町の上賀茂池殿町の町並み 

上賀茂池殿町の町並み

上賀茂北大路の町並み

上賀茂中大路町の民家

雪の社家町
嵯峨鳥居本の町並

嵯峨鳥居本地区は京都市街の北西嵯峨野のそのまた北西に位置する。愛宕山の麓に位置し、愛宕街道沿いの延長約650mにわたる街道筋の地域である。
 室町末期頃、農林業や漁業を主体とした集落として開かれたという。また愛宕山頂(924m)に祀られる愛宕神社は古くから火伏せの神として人々の崇敬を集めてきた。江戸中期になると農村と愛宕詣での門前町としての性格も加わり、江戸末期から明治、大正にかけてこの愛宕街道沿いには農家、町家のほかに茶店なども建ち並ぶようになった。

一の鳥居から始まる門前町だから鳥居本と言うのではなく、8月16日夜の盆の「大文字送り火」のとき、最後に嵯峨野の曼荼羅山の「鳥居形」が8時20分ころ点火される。これが鳥居本という地名の起こりだ。
旧道(愛宕街道)の中程に化野(あだしの)念仏寺がある。約1100年前の弘仁年間(810〜824)に弘法大師が野ざらしになっていた遺骸を埋葬したとされる。境内の中央に広がる西院の河原には約8000体の石仏、石塔が並びもの悲しさが漂う。化野一帯に葬られた人々のお墓である。今尚、出土する石仏も珍しくなく、石仏と共に発掘される壷や古銭より平安期から鎌倉、室町、江戸の各時代に及ぶ。この無縁仏の霊にローソクをお供えする千灯供養は、地蔵盆の夕刻より行われ、光と闇と石仏の織り成す光景は荘厳である。
念仏寺の前の鳥居本仙翁町に、茅葺屋根と瓦屋根の合体したような曲がり中門造りになっている民家がある。魔除けの貝殻も付けてあり、玄関脇には2ケ所の駒つなぎ環ががあった。この家より上には農家風な茅葺屋根の家が多くなり、下には瓦葺の京風町家が並んでいる。丁度境目のこの家が両方の要素を取り入れた格好になっていた。


曲がり屋の民家

雪の一の鳥居前の風景
祇園新橋の町並み

祇園は八坂神社西門前、四条通りを挟んで鴨川以東一帯の広い地域をいうが、その範囲ははっきりしない。
この周辺は祇園感神院(現八坂神社)、清水寺の門前町として形成され、鎌倉時代から参拝人目当てのよしず張りの休み茶屋に、茶立て女や茶汲み女が発生し門前町ができ結構にぎわっていた。

しかし、応仁の乱で京都が焼け野原になってしまったので、参拝人が途絶えて門前町の原形も焼失し、元の農村に舞い戻ったと伝えられる。現在の祇園の前身の門前町が再生するのは江戸時代の初期に鴨川改修工事によって両岸に堤防が築かれると、初めは水茶屋が並ぶ程度であったらしいが、寛文6年(1666)に水茶屋は縄手の一角に集められ新地とよんで茶屋営業が許可され、この縄手付近を外六町とよんだ。
江戸も末期になると祇園会の復興、八坂神社の修築などで栄え,祇園一帯に休み茶屋が軒を並べ、茶から酒食のサービス、歌舞へと発展した。即ち、白川沿いの新橋あたりが開けて、享保17年(1732)に茶屋営業が許可され、この大和大路東側の白川沿いを内六町とよんだ。
それより前、元和年間(1615〜24)に京都所司代板倉勝重によって、四条河原に七つの芝居小屋を作るのが許可され、寛永年間(1624〜44)には四条河原に軒を連ねた芝居小屋が次第に常設化した。今も残っている南座はその内の一つで「南の芝居」と称していたが、明治中期に南座と改名した。芝居とともに茶屋も300軒ほど、旅篭も45軒ほどに増えた。正徳2年(1712)に三条から四条間に茶屋株、旅篭株免許が出て内六町が発展し、二階建ての夜のみ営業する茶屋(蛍茶屋)や料理を出す茶屋(豆腐茶屋)も現れた。
京都の都市的発展とともに公許された島原よりも、気楽に遊べる祇園が喜ばれ、また、幕末新撰組は壬生寺にいたので近くの島原を遊所にし、かたや勤皇方は祇園で遊んだ。
明治以降は島原は没落したが、祇園は繁栄を重ね、明治19年(1886)に祇園甲部、乙部ができた。


新橋通りの町並み(元吉町)

白川に面した町並み

新橋通りの町並み(元吉町)

新橋通りの町並み(元吉町)

白川に面した料理旅館(末吉町)

新橋通りの町並み(元吉町)

白川をへて末吉町を見る

祇園新橋(元吉町)

巽橋北側(末吉町)の町並み

巽橋北側(末吉町)の町並み